疏水だより

五月雨は 雲従えて 大文字

梅雨の季節になりました。大阪-京都は大きな地震に見舞われましたが、えねるぎぃっ亭は耐震構造もしっかりしていますので、揺れが収まっても、本も食器もびくともせず、トイレの窓に立てかけた、軽い飾りだけが、地震の名残を伝えていました。

地震と思ったら、今度は竜巻です。昔竜巻は日本ではあまり観測されていないように思います。ただし昔は今ほど観測データがありませんから、ちゃんとした比較は出来ないのですが。

竜巻もしかし、人為的なものが原因の異常気象かも知れません。南駄老は、ゲリラ豪雨と同様、人為的なエネルギー消費が原因の一部を作っているのではないかと考えています。でもそれはとりあえずここで展開できる主題ではありません。

紹介してくれる人がいて、南駄老小さな俳句の会の末席を汚すことになりました。京都はこのような気軽なしかししっかりした会があること、歴史を感じます。これから時々そこで見てもらうように、疏水に関した句を作ります。そしてこのHPでも公表していきます。

第一の句がこれです。梅雨時には京都の空は雲乱れ飛び、雲の切れ間にあたかも雲が額縁になったかのように、見慣れた景色がポッカリと姿を見せることがあります。大文字を浮かび上がらせる雲の切れ間、それをイメージいただければ幸いです。

緑が濃くなりました

京都の緑が濃くなりました。写真では分りづらいかもしれませんが、初々しかった青紅葉も、しっかりとした緑に変わりましたし、桜の葉は色も濃く、光合成で太陽エネルギーをしっかり取り入れる態勢に入っています(この表現、うまい表現が見つからなくて、ついエネルギーの考えに頼ってしまった結果なのですが、でも科学的には正しいのですよ。陽の光が一番強くなるこの時期、光合成をしっかりとやって、来年の春の開花に備えるのです)。

写真を一枚一枚見ていきましょう。最初は大文字の遠景です。望遠で撮ってあります。3ヶ月後には鮮やかな送り火が灯されます。

二枚目はもみじ葉だけが写っているのですが、重なり具合だけで緑の濃淡が浮かび上がります。晴れた日の光のトリックです。

駒井亭もすっかり緑に囲まれました。三枚目の写真でご覧ください。

四枚目は、疏水脇の、自転車も通行を禁じられている遊歩道の今日の写真です。

京都の今年は、暑くなったり寒くなったり、異常な春になっています。でも京都えねるぎぃっ亭の建物は、温度がほぼ一定に保たれており、この家の構造の素晴らしさを、体験できます。寒い日も暖かく、暑い日も涼しい。まだエアコンで調節してはいません。断熱性が高い結果、このようになっています。

もう少し経過すれば、さらに複雑な仕組みが活躍するはずなのですが、それはまたのお楽しみに。

緑が美しい時期の始まりです。

京都は本当に緑が美しい。四季を通して京都は色を常に変え、化粧直しをして季節の移り変わりを告げていきます。

その中でも桜の花が散った後の木々の緑の美しさは格別です。三週間前の写真と比べてみましょう。1枚目の写真は3週間前の疏水端の桜並木です。ほぼ同じ場所から今日撮った写真が2枚目のものです。桜の花が散るとほぼ同時に芽生えるのが桜の葉ですが、今はもう力強く伸びています。

この時期最も美しい緑は紅葉の若葉です。つたない写真でそれがどれだけ伝わるでしょうか?でも雰囲気は分っていただけるでしょう。大きく翼を広げた木の枝に、みずみずしく匂い立つような若葉が、多少はにかみながらうれしそうに春風に乗って踊ってています。


4枚目の写真は隠れた疏水の名所の一つです。駒井邸と呼ばれていますが、筑紫哲也さんも好んで訪れていたとか。昭和初期に、京都帝国大学理学部教授だった駒井という人の邸宅だったので、こう呼ばれています。疏水が文化人たちに好まれたことを示す一例です。そういえば南駄老が学生の時の理学部長の邸宅も疏水沿いにありました。その邸宅も駒井亭も哲学の道から離れていますけどね。

左手前に大きく移っているのが桜の葉です。右手に茂っているのが紅葉の若葉です。この時期の美しさでは、紅葉に軍配が上がると思いませんか?

疏水沿いの桜並木(クリックで拡大します)

ほぼ同じ場所での現在の写真

紅葉の緑。とても美しいですよ

駒井邸。約80年前の建物です

満開の桜を楽しむ週末 1

先の週末は、例年になく早い桜の満開と重なりました。

疏水と鴨川の関係を今に残すポイントが最初の写真です。右に流れているのは鴨川です。二日前にこのホームページに掲載した鴨川端(このページ二段下になります)とはかなり離れているのですが、やはりここにも桜が並んでいるのが分ります。

真ん中に鴨川縁の遊歩道が見えますね。そしてこの遊歩道の先には橋が架かっています。変でしょう。川の流れとクロスして橋は架けられるもの。ですがこの橋は鴨川と並行しています。この下には通常水は流れていませんが、時々流れることがあります。疏水本線からの水が大量になったとき、発電所の調整のため水が流されるのです。疏水の水がこの橋の下を通るのです。

この疏水本線を少し東にたどると、夷川発電所があります。疏水の水を使って蹴上に発電所が今でもありますが、夷川発電所も疏水の水力を利用するため作られました。ここでも桜が満開です。そして桜の向こうに銅像が一体あります。疏水を企画し、実行に移した北垣国道の像です。肉眼では遠くで見えにくいので、望遠機能を使って写しました。

鴨川と疏水の出会いスポット

夷川発電所。疏水本線最下流にある。

桜を通してみる北垣増

満開の桜を楽しむ週末 2

哲学の道はこの週末も大変な人出でした。少し閉口するので、疏水から離れてみます。ひどく歩き疲れてなかったら、白川を超え、白川通りを超えてしまうと、そこに丘があります。京都ではこの丘を吉田山と呼んでいます。このページの下のほうに掲載している京都市内疏水概念図を見てもらえば、その関係がわかります。

吉田山はこの百年の間、京都の学生の逍遙の道となってきました。今はもうあまり知る人がいなくなったと思いますが、旧制三高の寮歌「逍遙の歌」は南駄老の学生時代にも、酒を飲んでよく歌ったものです。「紅萌ゆる丘の花 早緑匂う岸の色 都の花に嘯けば 月こそかかれ吉田山」で始まり十一番まである歌を飽きずに歌ったものです。

さて今書いた歌詞は都の春を表します。桜は紅萌ゆるというイメージとは少し違いますが、次の句の早緑匂う岸の色に注目してください。桜の季節はあっという間に過ぎますが、京の春は緑が美しく、その緑に色とりどりの花が映えるのです。

一番目の写真は吉田山中腹の神社の参道です。トンネルを作る右の桜並木に十分対抗して、左の緑がその存在を主張しているでしょう。この緑は紅葉の若葉です。今はまだ堅さがとれていないのですが、もうしばらくたつとみずみずしく輝くような早緑色になります。まさに匂うような早緑色です。これを春を代表する岸の色と三高生たちはとらえたのです。もちろん岸とは水に対抗して言っているわけで、水は川であり、疏水であったのです。ついでながら疏水の立役者北垣は、疏水事業の成功の後、第三高等学校を京都に持ってくるのです。三高生たちは疏水の水に対して岸と詠んだのかもしれません。

二番目の写真はこれも吉田山にある真如堂の桜と紅葉です。真如堂は紅葉で有名で、十一月になると、ここも人であふれかえりますが、それ以外の季節は静かに京都を楽しめる場所の一つです。

月こそかかれ吉田山。先の週末は満開の桜と満月が重なりました。それなら当然次の歌が思い出されます。

清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵逢う人 皆美しき

祇園の夜桜見物といかなければ。祇園の夜桜と東山にかかる満月を載せておきます。

右に桜。左に紅葉。

桜と紅葉と真如堂の三重塔

祇園枝垂れ桜にかかる月

月と桜と東山

桜が満開です。

3/30 
二日前にご紹介した京都えねるぎぃっ亭近くの疏水の桜は今満開で、少し散り始めました。疏水に花びらが浮かび、水面を彩ります。青空に桜のほのかなピンク色と、常緑の緑がとてもよく映えます。

自転車に乗って鴨川端まで行ってきました。疏水と天然河川が織りなす古都の水の流れは、山紫水明の地京都を流れる動脈のようなものです。鴨川河畔も桜の名所であり、市民の憩いの場でもあります。三番目の写真では、上流にも桜並木が続いている様がわかるでしょう。自転車でかなりの距離を走っても、満開の桜は続きます。

風がとても強い日でした。桜の枝が大きく揺れていました。でも面白いことに、桜の花びらはしっかりと枝についたままです。桜の花は満開が過ぎて、時が来るまでは決して落ちないのです。えねるぎぃっ亭の近くの桜は、すでに散りかけていますから、鴨川端の桜の方が、少し遅いといえるでしょう。

鴨川にはソメイヨシノだけではなく、枝垂れ桜も見事に咲いています。

青空に映える桜。

鴨川縁の桜。上流にも続いているのが見える。

鴨川縁のしだれ桜。

京都えねるぎぃっ亭の近くの疏水も桜が見頃です

3/28
京都えねるぎぃっ亭から100メートルほど東に歩けば疏水ですが、そこでも桜が見頃になりました。今年は桜の開花が早いようです。これから夏にかけて、京都は徐々にだけど日々に、そのカラーを変えていきます。また場所によって微妙に桜の時期が違っていたりします。

とりあえず今は桜を楽しむ時期です。今週末がピークでしょうか。来週には桜吹雪が舞い、疏水の水面にはピンクの絨毯が敷かれることでしょう。

近くで撮った写真をお楽しみください。

昔詠んだ歌です。

舞う雪を 受けて疏水の 花絞り 宙に続くは 桜雲の道

素人芸はやめてほしい? 南駄老恥じるばかり。失礼いたしました。

クリックでおおきくなります

哲学の道と白川

右に琵琶湖疏水概念図を張り付けてあります。一目でわかるように哲学の道と白川がほぼ並んで流れているでしょう。これは偶然ではなく計画されたことでした。琵琶湖疏水起工趣意書から一部を引いてみます。

若王子より鹿ケ谷村近傍は、其の山麓の高地に運河ありて、下に白川の流れあるのみならず、土地の勾配はなはだ急なれば、水車の設置に尤も適当なる疑いを入れざる所なり。また運河より分水して、これを水車に用い、残余を白川に流すときは、以て運船の便を白川に開き、製造場に便を與ふること夥多なりとす。

この部分は琵琶湖疏水の最初の計画の骨子をなすところです。起工趣意書が提示された勧業諮問会で、初めて公の場で北垣が琵琶湖疏水の目的を挙げ、その構想を明らかにしますが、その中でも疏水の心臓部のイメージを述べたくだりなのです。

疏水の第一の目的は水力によるエネルギーでした。それも水車でした。山麓の高地に運河があって(哲学の道の流れです)、下に白川がある構造を作れば、この間の斜面が急であるから、水車の設置にふさわしいと思っていたのです。このように哲学の道の流れと、白川の流れをうまく利用することは、疏水の心臓部をなしていたのです。

疏水概念図で解りますが、現存の構造では白川は低位の疏水本線と合流しています。この形になったのは、インクラインで船を直接おろすという改善案が採用されたからです。白川と疏水本線が合流しているということは、気が付く人も少ないのですが、南禅寺船溜まりでよく見てみると、白川と合流しているのがわかります。右にその写真を載せておきます。写真の左に見える二つの四角の口の下に流れるのが白川です。


また起工趣意書は案がまだ抽象的でわかりにくいのですが、運河を分水した後残りを白川に流すことによって、水運を得ることが書いてあります。この時はまだインクラインで船を直接おろすことは考えられていませんでした。白川を増水させてそこに船を通すと読み取れます。また増水した白川に精米用の水車を並べるとこの後の文で書いてあるのですが、若王子から鹿ケ谷に向かう運河は水運と水車の両方に使うことを考えていたと読み取れます。それが山麓の高地に恐ろしいほど静かな流れを作り出したのです。哲学の道の誕生でした。

疏水のための測量をしたのは、島田道生という人でした。この人の測量を基に疏水が作られたのですが、今に残る疏水には、白川と合流するように計画された痕跡が残っています。静かに流れた疏水は銀閣寺の近くで、白川とほぼ同じ高さになります。つまりここで自然に白川と合流できるよう、設計されているのです。同じ高さを保ちながら若王子から静かに流れてきた疏水は、銀閣寺道で白川と同じ高さになります。でも今は合流しないよう、逆に特殊な構造で、白川と疏水は交差します。流れの交差点と言ってもいいでしょう。疏水の水は交差点まで静かに流れ、白川の下をサイフォンの原理で潜り、その流れを続けています。ただ水面に浮かぶ花びらや落ち葉はサイフォンを潜れず、ここに溜まってしまいます。景観を保つために常に係の人が掃除をしているのでしょう。意外な舞台裏を右の写真でご覧ください。

疏水本線点描

低位の疏水本線沿いの道は静かで落ち着いた散歩道です。

丸太町から鴨川沿いの道(川端)を少し下ると、疏水本線に出会います。疏水本線を東に辿ってしばらくすると、右の写真の碑文があるのを見るでしょう。北垣国道の像の説明です。しかし像は疏水の向こう側にあり、この辺りで水道局だの関西電力だのが疏水を使っていて、向こう側にわたれませんから、肉眼ではっきりとその表情まで見ることができません。

そこで望遠機能を使って撮った写真が下の写真です。穏やかな表情でゆったりと構えた人物像が立っています。若いころ血気にはやって生野の変を北野國臣らと主導したとは思えない顔です。疏水を企画し実行に移した張本人であることはもっと知られていいことであると思います。事実自然エネルギーによる産業革命(本人はそのように言ってはいませんが)を主張したのは北垣なのですから。自然エネルギーとか産業革命とかいう言葉は、そのころ使われていなかったでしょう。しかし彼の文を見ると明らかにそう言っているのです。

さて運が良ければ、この辺りで面白いおじさんが銅細工をしているのを目にすることができるでしょう。見てください。この指を。この指で銅線を紡いで銅細工を作っているのです。下の写真は銅細工を手にしたおじさんの指です。

北垣は疏水の起工を、「京都は商業の街ではない、工業の町だ、京都を栄えさせるには工業を盛んにしなければならない。工業のために動力を引いてくるのが第一の目的だ」と繰り返し言っていますが、かれの意味した工業は人の手による工芸品の製造でした。それを品質を保ちながら機械の力で量産するのだというわけです。塵海を見れば、130年前にすでにこんなことを言っていたのかと、感動を抑えられません。

このおじさん、北垣の言う工業を今につないでいます。疏水とともに北垣が考えた京都が続いている象徴的な存在にも思えます。

見かけたら声をかけてみてください。なかなか愉快なおじさんですよ。